べっ甲ピックの魅力、べっ甲ピックの製作過程、べっ甲ピックのアーティスト

べっ甲ピック使用のギタリスト


べっ甲ピック使用のギタリスト

リッチー・ブラックモア

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ディープ・パープル、レインボーの元メンバーとして有名。

「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」などの明快で印象的なリフ職人であり、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」などの超絶的な速弾きは有名で、ギター速弾きの元祖と言われる。

ロック・ギターにクラシック音楽のフレーズを導入し、後にイングヴェイ・マルムスティーンが確立する、「ネオクラシカルメタル」の世界観を生み出し、ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、70年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。 また、ロングヘアー、黒い上下の衣装、ストラトキャスターの多用、ステージの最後のギター破壊など、彼のファッションやパフォーマンスは、ロックにおけるヒーロー像として現在にも受け継がれている。

イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイ、ランディ・ローズ、クリス・インペリテリ、ヤニック・ガーズなどの彼の世界観やプレイに影響を受けた多くのフォロワー達が存在する。


ビートルズ

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世界中で最も広く知られ、成功したロックバンド。イギリスのリヴァプールで結成され、アメリカを制圧し、世界中を席巻してポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE勲章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティストとして、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。


B.B.キング

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1925年9月16日にアメリカのミシシッピ州に生まれる。幼少の頃は小作人として働く。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーやロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたという。

1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州のメンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていく。

1949年の冬にある出来事(後述)をきっかけに自らのギターをルシールと名づける。

同1949年頃からスタジオ・ミュージシャンとして数々の作品のレコーディングに参加するようになる。
1950年代に入るとR&Bギタリストとしての活躍が目立ち始める。

1951年末にシングル「3 O'clock Blues」が初ヒット。
1960年代前半には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった「Rock Me Baby」を発表。

1969年に発表された「Thrill Is Gone」のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)で一躍有名になる。1970年代に入っても彼の活躍は続き、1951年から1985年までの間に実に74回もビルボードのR&Bチャートに載っている。

1980年代から2000年までの間は、アルバムのリリースは少なくなる一方、テレビのショーへの出演やライブへの出演が多くなり、特にライブの回数は年に300回にも達していたという。

1988年にはアイルランドのU2とシングル「When Love Comes To Town」をリリース。1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソン、ドクター・ジョン、ローリング・ストーンズ、ウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが大挙参加。

2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作した。


ジャンゴ・ラインハルト

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ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。

1924年、歌手の伴奏でバンジョーを弾く。これが初のレコーディング経験となった。その後ギタリストとして活動。

18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左指2本の動きを失う大火傷を負ったが、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。1934年にはフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成。映画『ギター弾きの恋』の中でも名前がでている。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。

1949年、フランス・ホット・クラブ五重奏団の盟友であるステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)と共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏していた模様を収めた『ジャンゴロジー』は、傑作として名高い。

1953年、フランスで亡くなる。


渡辺香津美

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中学2年でベンチャーズに興味を持ち、初めてギターを手にする。高校に入学するとジャズに興味を持ち、ヤマハ音楽教室で中牟礼貞則に学び始める。1971年に『インフィニット』でデビュー、17歳の天才ギタリストの出現と騒がれた。また渡辺貞夫等トップミュージシャンのグループに在籍した。1979年には坂本龍一、矢野顕子、村上秀一らと伝説の「KYLYN BAND(キリンバンド)」を結成。また同年にはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のワールドツアーにサポート・ギタリストとして参加した。この模様はYMOの3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー(公的抑圧)』で発表されるが、渡辺のギター・チャンネルは、当時彼が所属していた日本コロムビアの意向でカットされることとなり、代わりに坂本龍一のシンセサイザーが追加録音された(渡辺のギターは後年リリースの『フェイカー・ホリック』等に収録された)。

コロムビア時代の代表作の一つ『TO CHI KA』ではヴィブラフォン奏者のマイク・マイニエリがプロデューサーとして迎えられている。このアルバムの収録曲"Unicorn"が日立のオーディオ・ブランド「Lo-D」のCM曲に使われ、人気を不動のものとする。

1981年からはFM東京(当時)系列で自身の番組『グッド・バイブレーション〜渡辺香津美・ドガタナ・ワールド』のパーソナリティーを務める。

1982年に日本コロムビアからポリドール(当時。現ユニバーサル・ミュージック)に移籍、併せて自らのレーベル「domo」を立ち上げる。

1990年から1996年にかけて関西テレビの深夜ローカル番組『夢の乱入者』に出演。ポップス系を中心に異分野のミュージシャンをゲストに招き、トークとスタジオライブ(東原力哉、清水興らとのバンドにて。公開収録もあり)で多数と共演した。

2005年よりNHK FMの『ジャズ・トゥナイト』のパーソナリティーとしても活躍している。

現在洗足学園の特別講師も務めている。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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